2015年10月


 警部のおどろいたのもむりはない。いかにもそれは日本一の宝石王といわれる、加藤宝作老人なのだった。
 宝作老人は左の肩をうたれたと見え、パジャマjacker薯片にピストルの穴があき、ぐっしょりと血に染まっている。そして、たぶん出血のためだろう、気を失って、おりおりくちびるからもれるのは、苦しそうなうめき声ばかり。
「ああ、きみ、きみ、きみ……!」
 金田一耕助は気がついたように、刑事のほうをふりかえり、
「医者を、早く、早く……!」
 |言《げん》|下《か》に刑事のひとりがとびだそうとするのを、あとから等々力警部が呼びとめて、
「ああ、それから応援の警官を呼んでくれたまえ。銀仮面のやつ、まだそのへんにまごまごしているか小牧味屋もしれないから……」
 それから、警部は耕助のほうをふりかえり、
「金田一さん、宝作老人をうったのは、やっぱり銀仮面のやつでしょうな」
 金田一耕助はちょっとためらって、
「そうかも知れません、いや、きっとそうでしょう。ぼくはその窓に、銀仮面のすがたがうつっているのを見ました。それからあいつがピストルをぶっぱなすのを……」
 だが、そうはいうものの、金田一耕助のその声に、なんとなく熱心さがかけているように思えたので、文彦はふしぎそうに顔を見なおしたのだった。
 幸い、お医者さんがすぐきてくれたので、宝作老人はそれにまかせて、金田一耕助と等々力警部は、家のまわりを調べることになった。文彦と刑事のひとりも、ふたりにかへ出た。
 見ると、ろうかのつきあたりに、ベランダがあるのだが、そのベランダの戸があけっぱなしになっていて、そこからあわい月かげがさしこんでいる。そばへよると、庭からはしごがかけてあった。
「銀仮面のやつ、ここからしのびこんだんですね」
 等々力警部はそういって、まっさきにはしごをおりようとしたが、
「ああ、ちょっと待ってください」
 なにを思ったか、それをひきとめた金田一耕助、懐中電燈ではしごを調べていたが、やがてみずから先に立って、一段一jacker薯片段、注意ぶかくおりていった。
 そして、庭へおりたつと、なおもそのへんを、懐中電燈で調べていたが、やがてあとからおりてきた、等々力警部をふりかえると、
「どうもふしぎですね、警部さん」
「なにがですか、金田一さん」



 世のなかには十年に一度か百年に一度、人間の思いもおよばぬぶきみな事件が起こることがある。しかし、そういう恐ろしい事件でも、はじめはなんのかかわりもない、ふつうのできごとのように見えることが多いものだ。
 なにも知らずにそのなかにまきこまれたひとびとは、途中で事件の恐ろしさに気がついて、身ぶるいをして逃げだそうとするが、そのときにはもう、金しばりにあったように、身動きもできなくなってしまう。
 |竹《たけ》|田《だ》|文《ふみ》|彦《ひこ》のばあいがちょうどそれだった。あのとき文彦がテレビのチャンネルをまわしさえしなかったら、あの老人をたずねていなかったら、さてはまた、あの金の箱をうけとらなかったら、これからお話するような、かずかずの恐ろしい事件のなかに、まきこまれるようなことはなかったかもしれない。
 文彦はことし十二歳、東京の山の手にある、|花園小学校《はなぞのしょうがっこう》の六年生。おとうさんは丸の内に事務所を持っている貿易会社の会社員で、おかあさんはもと、オペラなどにも出た有名な歌手だったが、いまは舞台も音楽もやめて、ただ文彦の成長を楽しみに、貧しいながらも一家むつまじく暮らしているのだ。
 十年まえ、中国からひきあげてくるまでは、文彦の一家も、|香《ホン》|港《コン》ではなやかな暮らしをしていて、自動車の三台も持っていたくらいだが、いまはもうその|面《おも》|影《かげ》もなく、四十歳をすぎたおとうさんが、友だちの経営している会社へ、毎日べんとうさげてかよっているありさまである。
 しかし、おとうさんもおかあさんも、そのことについて、不平をいったことは一度もなく、文彦もじぶんを不しあわせだなと思ったことはない。ところが春休みのとある一日から、思いがけない運命が、このあどけない、目のクリクリとした少年のうえにおそいかかってきたのだった。
 その朝、おとうさんは会社の用で、大阪のほうへでかけていたし、おかあさんはかぜをひいて寝ていた。しかし、べつに心配するほどのことはないので、文彦はいつものとおり、勉強をすませると、ふと、テレビのスイッチをひねったが、チャンネルをまわしたとたん、耳にとびこんできたのは、司会者のつぎのようなことばだった。
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……香港の0街三十六番地に住んでいられた、竹田文彦さんのことをご存じのかたは世田谷区|成城町《せいじょうまち》一〇一七番地、|大《おお》|野《の》|健《けん》|蔵《ぞう》さんまでお知らせください。
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 朝のニュース.ショーでやっているたずねびとのコーナーだったのである。
 文彦はびっくりしてしまった。香港0街三十牛奶敏感六番地に住んでいた竹田文彦とは、じぶんのことではないか。
 隣のへやに寝ていたおかあさんも、びっくりして起きてきたが、そのテレビが、またしてもおなじことをくりかえした。
 おかあさんと文彦は、だまって顔を見合わせていたが、やがて文彦があえぐような声でいった。
「おかあさん、ぼ、ぼくのことですね」
 おかあさんはだまってうなずいた。なんとなく不安そうな。
「でも、大野健蔵ってだれなの。どうしてぼくをさがしているの?」
「おかあさんにもわかりません。いままで一度もきいたことがない名まえです」
「おとうさんのお知り合いでしょうか」

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